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7話. 非常事態宣言

Author: 6jay
last update publish date: 2026-09-26 21:58:36

冷たい大理石の廊下の床から、互いを支えるようにどうにか体を起こした二人は、よろめきながら再び応接室へ入った。泰輝は扉を閉めるなり、二重ロックをカチリと音がするまで掛けた。

静寂の室内に響くのは、荒い息だけだった。革ソファに倒れ込むように腰を落とした絵奈は、震える手で乱れた襟元を整えようとしたが、指先に力が入らない。

十メートルを外れたときに味わった、地獄のような距離を外れたときの感覚暴走が、まだ背筋を冷たく撫でていく。

「……距離に反比例する呪い、ですね」

絵奈が青ざめた唇を動かし、乾いた声で口を開いた。

「そういう記録があるか確認しなければ。離れるとひどくなり、また近づくと収まった。今はっきりしているのはそれです」

「そんな迷信が本当に俺たちの体で動くとはな」

泰輝はテーブルのミネラルウォーターを乱暴に開け、一気に喉へ流し込んだ。喉仏を伝った水滴が汗に濡れた鎖骨と胸を濡らしたが、拭う余裕さえなさそうだった。空の瓶を置き、テーブルのメモパッドを見る。誰が悪いかを詰めても、この部屋は出られない。

「状況を整理する。第一。俺たちの感覚と物理的な摩擦刺激は、ほぼそのままリアルタイムで同期する」

冷たい指を一本立てた。

「第二。距離が十メートルを超えると、まともに立っていられなくなる。さっき廊下で見たろ。外でまた起きたら、二人とも救急だ」

「第三」

絵奈がまだ震える声で続けた。

「来週、財団三十周年のVIPガラがあります。グループ会長も役員も、政財界の主要人物が全員出席します。もし公式の場でこの醜態を一秒でも晒したら……」

「天城グループの後継構想から、俺の名前は当日で永久に消える」

氷のような声で泰輝が言葉を切った。

「神崎も無事だと思うな。積み上げた経歴より、財閥のスキャンダルが先に付いて回る。この業界に残ること自体が難しくなる」

二人とも、失うものが多すぎる完璧主義者だった。社会的抹殺。その言葉は死より悍ましい恐怖であり、実質的な破滅だった。

「選択の余地はない」

泰輝はテーブルの万年筆と革のメモパッドを引き寄せ、一気に書き始めた。

【非常協力協定書】

「第一条。遺物の完全な解除方法が見つかるまで、二十四時間、互いの直線距離を十メートル以内に保つ」

紙を擦る鋭いペン先の音が、静かな部屋を裂いた。

「第二条。相手の事前承認なき恣意的な刺激は一切禁止。私的な身体接触はもちろん、シャワー、下着の着脱、激しい運動、辛く熱い食事まで、すべて事前通告のうえ行う」

「……シャワーまでいちいち報告しろと?」

絵奈が呆れたように食ってかかると、泰輝は冷たい目で彼女を真正面から見た。

「裾が擦れただけでこのざまだ。シャワータオルで全身を擦ったらどうなる。そのときも知らん顔をするのか」

絵奈は羞恥に顔を赤らめ、口を結んだ。

「第三条。職場内では完璧な上司と部下の関係を維持し、社内に一寸の疑いも抱かせない」

泰輝が決然と署名した紙を絵奈の前へ押し出した。絵奈は一瞬迷ったが、やがて震える手で自分の名を丁寧に記した。協定が完成したとき、絵奈はふと、いちばん致命的で根本的な疑問を口にした。

「それで……二十四時間、十メートルの内側にいるには、夜はどうするんです。私はギャラリー近くの十坪のワンルームに住んでいますが」

泰輝の濃く冷たい瞳が絵奈の顔に刺さった。ジャケットの内ポケットから重いマグネットのブラックキーカードを出し、テーブルへぽんと投げた。

「広尾のペントハウスだ。部屋は三つ、複層構造だから、顔を赤らめて顔を合わせる機会はほとんどない」

「理事の家で同居しろ、ですか」

「同居じゃない。二十四時間監視の密着隔離だ。今夜から荷物をまとめて入れ」

泰輝の命令は絶対で、拒否権は存在しなかった。絵奈はテーブルの黒いカードをぼんやり見下ろした。

生涯、潔癖に近く原則と体面を守ってきた自分の人生が、一瞬で、最も憎んでいた男の私的領域の真っ只中へ吸い込まれていく。だが拒む手段はない。十メートルという物理的な限界線が、二人の首根っこを掴む見えない枷だったから。

「……退勤したら一緒に移動します。一人で荷物を取りに行って、また離れるわけにはいかないので」

沈んだ返事に、泰輝は無言で顎を上げた。

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